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富士山展1.0,2018

fujisanten

​⚫︎展示概要

「富士山展」は、多様なジャンルのクリエーターがそれぞれの「富士山」を描くウェブ連動・双方向型の展覧会。2回目の開催となった今展示は、前回の「富士山展β」をアップデートし、オークション機能を持つウェブサイト「startbahn」とも連動しながら、AWAJI Cafe & Gallery、野方の空白、パープルーム予備校、BRÜCKEの4会場で展覧会やイベントを実施した。

​⚫︎作品コンセプト

『富士山』と聞いて頭の中で思いつく景色は人それぞれであるが、私が一番最初に思い描いたのは銭湯に描かれた雄大な富士山であった。実物の富士山は日本の心、日本人の誇りと皆が思うことだが、銭湯の富士も日本の文化、日本人らしさを演出してくれる富士だと思った。今展示場所は東京の神田に位置しており、日本で初めて富士の絵を描かれた銭湯もこの東京神田にあったことを後から知り、出会うべくしてこの作品を制作した。

 

​⚫︎レビュー
イトウモ(伊藤元晴) 批評再生塾

頂点を削った三角形に、雪をかぶせれば富士山。その山は、日本人なら誰でも描ける記号として認知された他に類を見ない山ではないだろうか。本展における何人かの作家に共通したアプローチは、実物の富士山が持つアウラを通じていかにその記号を脱臼させるかにあるようだ。一方、鈴木有沙が試みは、現場の富士山ではなく、今ここにある私たちの身体に記号ではない富士山を引き寄せる方法だった。カフェの中に設えられた銭湯の個人用シャワー一式は確かに、室内に立ち込める湯けむりとそこに置かれた椅子に腰掛けた時、鏡を通じて見える背後の湯船を連想させる。一方でどうしてもそこがカフェであり、自分が靴を履いて服を着たままその装置と向かい合っている違和感も拭えない。この装置自体に、初対面同士が裸で行き来する「風呂」という公共空間への異化効果を持っている。それは富士山展全体のコンセプトにも深く通底する問題のはずだ。裸で銭湯という公共性を共有する奇妙さは、富士山という記号を無意識に共有する奇妙さにも通底している。富士山の前で私たちはいつのまにか裸である。鈴木の作品は温泉と富士とが持つ優しさと温かさを、一度外に取り出して再考する。

公式ピッカー:永原真夏(SEBASTIAN X) 
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